SSブログ

「Man In The Music」より「Chapter 8 The Final Years」 ["Man In The Music"]

本書にはこれまでに紹介したような「曲の解説」だけでなく、マイケル・ジャクソンのソロアーティストとしての活動を丹念に追った文章があり、実はこちらが「本文」なのだと思います。

なかでも最後の章である「Chapter 8 The Final Years」を選んで抜粋してみることにしました。
というのも、多くのマイケル本で書かれる2006年以降は、著者の情報不足のために、マイケルが何もしていなかったかのように書かれるか、音楽以外のゴシップでうやむやにされるかどちらかですが、それに対しこの「chapter 8」はマイケルの伝記として「本来はこうあるべき」記述の(初めての?)良い例だと思ったからです。

Man in the Music: The Creative Life and Work of Michael Jackson

Man in the Music: The Creative Life and Work of Michael Jackson

  • 作者: Joseph Vogel
  • 出版社/メーカー: Sterling Pub Co Inc
  • 発売日: 2011/11
  • メディア: ハードカバー
(最初の1ページを省略)
世の人々は、もちろん、このこと(This Is It の計画)についてはほとんど知らなかった。最後の数年間、彼はそれまでにも増して世間から距離を置いており、彼のマネジメントや財政管理は混乱状態にあった。しかし、当時彼と仕事やインタビューで接した人々が感じ取ったのは、彼の新たな情熱と決意である。エボニー誌のブライアン・モンローは語る。「彼の隣でソファに座っていたなら、誰だって即座に、あの謎めいたアイコンの、薄く、ほとんど透き通るような肌の向こう側にあるものを、見通すことができただろう。そのアフリカン・アメリカンのレジェンドが、表面上に見える以上のものを持っていると。ひとりのエンターティナー、ひとりのシンガー・ダンサーである以上に、三人の子供の立派な父親で、自信を持ち成熟した男性が、まだたくさんの創造性をその内に秘めていることを。」

最後の数カ月の間、彼は仲間の共演者にこう語っていた「あまりにも”supercharged”で、夜、眠ることができない」と。彼の頭は休まる暇がなかったのだ。「僕はいま、繋がっているんだ」とマイケルはオルテガに語っていた。「曲を書いているんだ。アイディアが次々にやって来て、止めることが出来ないんだ」。 そんなマイケルに対しオルテガは「コンサートが始まる7/13まで、そのアイディアをどこかに置いておけないのか?」、と尋ねた。するとマイケルは、冗談半分でこう答えた。「わかってないね、、僕がアイディアを受け取らなかったら、神様はそれをプリンスにあげちゃうかもしれないだろう?」

最後のスタジオアルバム「Invincible」から彼が亡くなるまでの間の時期に、マイケルは新たな曲と未完成曲を行き来しつつ仕上げていた。マイケルは自分のごく最近の作品について、多様なスタイルの組み合わせになると語っていた。エレクトロから、シンセポップ、さらにはクラシックまで。「僕が好きなのは、サウンドを取り出して、顕微鏡で覗いて、どうやってそのサウンドに手を加えて行ったら良いか、ただ話し合うことなんだ」そう彼は2007年のインタビューに答えている。

当然のことながら、以前のアルバムの選曲から漏れた曲がたくさんある。(中略)そのいくつかは最終選考に残った曲を超えることはなくとも、同じくらいのレベルの曲たちである。選ばれなかった理由は様々だ。時にマイケルはさらに改良を加えるために曲を「取っておき」、時にはアルバムの他の曲と合わないという理由で除かれた。(後略)

マイケルの新しい曲たちは世界中の様々なコラボレーターとレコーディングされた。2002年の夏には長年の友人であるバリー・ギブと数曲をレコーディングしている。その中には豪華なストリングスでいっぱいのアンセム「Pray for Peace」(のちにBrad Buxerと仕上げられた)や、遠大なデュエットで宗教の名のもとで起こる戦争への反対を歌った「All In Your Name」がある。2005年の裁判中でさえも、彼は新曲の仕事を続けた。当時のスポークスパーソンであるレイモン・ベインは、新たに曲を書くことが癒しになるとマイケルが言っていたと記憶している。彼によると、新しいアイディアが沸いたときはいつでもその仕事をしていたという。これらのうちの一曲「From the Bottom of My Heart」(I Have This Dreamのバージョンの一つ)はハリケーン、カトリーナの犠牲者のために書かれたもので、「You Are So Beautiful」は彼の忠実なファンに向けたトリビュートであった。

2005年の裁判のあと、マイケルは子供たちとともにサウジアラビア近くの島国であるバーレーン王国に移った。(中略)マイケルは時折、宮廷のスタジオでレコーディングし、「Light This Way」や「He Who Makes the Sky Grey」が作られた。そこにはかつてマイケルと仕事をしたプロデューサーのビル・ボトレルが呼ばれたものの、彼がバーレーンに到着したときにマイケルは発ったあとであり、その後ボトレルは曲を仕上げるためスタジオで仕事をしたものの、その後彼らが合流することはなく、曲は完成をみなかった。その頃、マイケルはロッド・テンパートンやテディ・ライリー、さらには50セントやカニエ・ウエストなどに連絡をとっており、カニエ・ウエストはのちのThriller 25でマイケルと共演している。

その年(2006年)の後半に、マイケルはアイルランドに移動し、世間から離れた田舎の邸宅のいくつかで数カ月を過ごすことになる。マイケルが数週間過ごしたブラックモア城を所有するパトリック・ノードストームは、マイケルを「気の休まることのない魂」と表現した。しかし彼は、いくらかの休息とエネルギーの補充を、その滞在で得ることができたという。パパラッチから離れ、子供たちと遊び、本を読み、曲を書き、先の計画を立てながら。ある夏の夜には子供たちをつれてボブ・ディランのコンサートに行ったという。

マイケルは、ダンサー仲間であるマイケル・フラットリーが所有するキャッスルブリッジの家でも少しの時間を過ごした。しかし、彼がアイルランドで大部分の時間を過ごしたのはウエストミーズにあるGrouse Lodgeとその近くにあるCoolatore Houseである。それらを所有していたパディ・ダニングは、マイケルがアイルランドのあらゆる点に興味を持ち、地方紙を毎朝読み、国の歴史、神話、そして音楽に魅了されていたと言う。

Grouse Lodgeには素晴らしいスタジオがあり、マイケルは滞在中頻繁にそこを使用していた。ダニングは回想する。「マイケルは第二スタジオでほとんどのレコーディングをしていました。その部屋のサウンドが本当に好きだったようです。マイケルは信じられないほどの楽器奏者で、それを知って私は感激しました。彼はよくピアノの前に座ってはあらゆるビートルズの曲を弾き、私たちは皆で歌い、またあるときは彼自身がドラム、ギターを弾くのです。マイケルはNeff-U、ロドニー・ジャーキンス、Will.i.amといったミュージシャンと一緒に仕事をしていました。でも、レコーディングされた曲が完成することはなかったのです。」

脱線 --- Grouse Lodgeに充てたマイケルのお礼の手紙がありました。ソースはこちら

GL_MJ.jpg

こう書かれています。
The experience was beyond wonderful
the Hospitality second to none
the food, exquisite
Love and Thanx
the Jackson Family

さまざまなメモの中でも、特にしっかりとした筆致。
心をこめて丁寧に書かれています。
そして、マイケルの書く「the Jackson Family」は”ホンモノ”ですね。

脱線おわり ---

(中略)アイルランドで(そしてのちにラスベガスとロスで)、マイケルとWill.i.amは幅広いグルーブをレコーディングしていた。エレクトロの要素から、ヒップホップ、ディスコまで。「この世界から飛び出さんばかりだった」とWill.i.amはデイリーミラーに語った。「もちろんメロディックだったし、そして彼の言葉を借りれば”ジューシー”だった。『すごくジューシーだ、聴くと食べちゃいたくなるような音だね』って。マイケルの表現はすばらしいよね!」ある曲は「The Future」と名付けられた曲で、環境問題に向けられたものだが、心を射抜くようなラテンのビートに乗せられている。「それらの曲は、人を無理にでも動かす力をもっていたよ」とWillはBBCに語った。「聴いた人は、ダンスフロアに出ざるを得ないんだ。」もうひとつのミドルテンポのトラック「I'm Gonna Miss You」は2006年のジェームス・ブラウンの死にインスパイアされたもので、他には「I'm Dreaming」や「The King」など、マイケルをリスぺクトするUsherやNe-Yoとの共演が予定された曲もあった。「ああ、彼は、まるで鳥のように歌うんだ」と2006年にWillは心に思い浮かべながら語っている。 「彼は(歌うことで)どこにでも行ける。僕たちがここでやっていることは、何か本当に意味のあることだと思う。」

(~中略~)

(帰国後、2006~2007、ラスベガスにて)マイケルは旧友と仕事をすることを楽しんでいた。「ある日は2時間、またある日は8時間と、彼の子どもたちのスケジュールにあわせて私たちは仕事をしていました。」とレコーディングエンジニアのマイケル・プリンスは言う。「彼は素晴らしい父親でした。ほとんどの時間、彼がベビーシッターなしで子育てをしていたことも、人々は知らないでしょうね。彼はれっきとしたシングルファザーだったのです。朝食を作り、お話をして、ショーを見に出かけ、自分の仕事ぶりを見せていました。そのあとチューターを呼び、レコーディング中に彼らは勉強をするのです。」

(~中略~)

(2009)マイケルは最後の数カ月でさえも、ほとんどの時間はThis Is It コンサートの準備に費やされていたものの、レコーディングを続けていた。亡くなる二日前に、長年の友人であるDeepak Chopraに電話をかけ、環境についての新曲があること、彼が仕上げてきたその曲は「Breed」というタイトルであることを話していたという。その留守番電話には「いいニュースがあるんだ」と吹きこまれており、Chopraによるとマイケルは弾んだ声で興奮していたという。彼から送られてきたデモは、大地との繋がりを思わせる威厳にあふれたもので、「Earth Song」のような曲であった。しかしChopraはその後マイケルに連絡をとることはできなかった。「そのデモは私のベッドサイドに置かれ、ついえることのない生命の象徴として、私の心を刺すのです」

(引用終)


ほんとはこの後、クラシックアルバムのプロジェクトの話が続きます。
これで章全体の2割ぐらいです。ちょっとした休息期間のようにみえた時期でさえ、ひとりの人の三年間の仕事量としては膨大だなあ。。

ネット上にも素敵な「欠片」がたくさん散らばっているものの、こうしてVogel氏の手によって、一つの時間軸上に、不純物を排除しつつ編み上げられた文章を読んでいると、ひとりの「Man In The Music」がハッキリ見えてくるように思いました。やっぱり、こういう本は皆が手にとれる場所にあってほしいです。


訪問ありがとうございますm(_ _)m
ぽちっといただけると嬉しいです。
人気ブログランキングへにほんブログ村 音楽ブログ 洋楽へ
タグ:マイケル
nice!(0)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 2

accola

Meeさん、待ってました~♪アリガトウございます。本当に濃厚で濃密なMJの50年。1秒たりとも無駄にしない生きざま☆欲張りだけど全てが完璧な作品として世に出てたら…なんて。。(悔)
MJは普通の人の何百倍も真剣!に、大切に!その時を生きたのでしょうね(涙)だらしなく生きてたらバチが当たりますね(>_<)反省!!
by accola (2011-12-29 16:48) 

Mee

accolaさん、こんばんは。うう~ すぐにコメントいただけるなんて感涙です。

>全てが完璧な作品として世に出てたら…なんて。。(悔)

ほんとに、次々に出てくる作品名をみていると。。つくづく。。
共演者の手元にある作品が少しずつリリースはされていますけど、、Willの言う「マイケルは作品が外部に漏れないよう気をつけていて、Willの手元から作品は離れ、マイケルが管理していた」といった、純度の高い作品こそ聴きたいなぁ~と思ってしまいます。1曲でもいいから。。

>MJは普通の人の何百倍も真剣!に、大切に!その時を生きたのでしょうね(涙)

まさに。でも、時間を大切にしつつ、人に与えることには決してケチにはならないんですよね。。何を与えて、残すかに関してほんとに真剣ですね。。
ふう、見上げると高すぎますけど^^;自分で出来ることから、ですね..
by Mee (2011-12-29 19:32) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。